quarta-feira, 18 de maio de 2011

『津波のあとで』 - DEPOIS DO TSUNAMI - Albert Lea - 2ªPARTE (Japones)









ている時間に襲ってきました。多くの人たちは前日にもう教会
へ行っており、クリスマスのお祝い事もあって、ほとんどの教
会では礼拝出席者があまり多くありませんでした。教会の建っ
ている場所のおかげで、礼拝に出ていた人たちが助かり、家
にいたために亡くなった、というケースがありました。その一方
で、礼拝に出ていた忠実な人たち(ほとんどが女性と子供)
が亡くなり、助かったのは3 人だけ。ところが礼拝に行かなかっ
た男性たちは助かった、という教会のことも知っています。
イエスがこの世界に来られた時、誰もが味わうのと同じ苦し
みを経験されました。それこそが、イエスが人となられたことの
重要な点でした。同じように、イエスに従う者たちも、手を差
し伸べようとする人々と同じ苦しみを通る必要があります。津波
からの復興は、私たちすべてにこの機会を与えています。津
波の被害で苦しんでいる人々の中に多くのクリスチャンが含ま
れるということは、私たちにとって意義のあることです。私たち
は彼らのうめきを通して、この国の人々とひとつになることがで
きるからです。
イエスは当時起こったふたつの惨事についてコメントしてい
ますが、そのみことばはとても興味深いものです。イエスがや
がて来るさばきについて話しておられた時、ある人たちがやっ
て来て、ガリラヤ人たちがいけにえをささげていた時に、ピラト
によって殺されたことを知らせました。多分このことを話した人
たちは、これは神のさばきだとでも言いたかったのでしょう。で
もイエスはそのような考えを否定してこう言いました。「そうでは
ない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改
めないなら、みな同じように滅びます」(ルカ13:3)。それから
イエスは、塔が倒れて18 人が犠牲になった事故のことに触れ、
もし悔い改めないなら「みな同じように滅びます」(5 節) と話
しました。同じ警告を3 節と5 節で二度繰り返すことは、この
警告が差し迫ったものであることを示しています。
私たちはこのような惨事を、悔い改めないならもっと大変な

事態に直面することへの警告だととらえるべきだ、というのがイ
エスの言っておられることです。同じように、津波のような災害
も、私たちすべてに差し迫っ
た警告を与えています。それ
は、私たちがいかに弱い存在
であるかということを思い知ら
せます。私たちは、死とその
後に続くさばきに直面する準
備ができているだろうか。この
ような災害に直面する時、私たちはすべてのものを統べ治め、
自然をも支配する神の前にへりくだり、この神に従うようにと導
かれます。
聖書に出てくるさばきに関する記事は、そのほとんどが神の
民に向けられていることを忘れてはなりません。神との契約の
外にいる人々へのさばきに関する記事は、わずかしかありませ
ん。人々は、神に対する反逆のゆえにさばかれる。そのさば
きから救われるためにはどうしたらよいか、そのことを何とかし
て彼らに知らせなければなりません。しかし、ある出来事をとり
あげて、それを私たちの敵に対するさばきだと決めつけるのは
危険です。聖書に明確に教えられていること、つまり、私たち
を迫害する者のために祈り(マタイ5:44)、彼らを祝福しなさ
い(ローマ12:14) という命令にこそ従うべきです。
津波の後、クリスチャンのグループがある施設を訪ね、敷
地のがれきを取り除く手伝いをしました。その施設の責任者は、
このクリスチャンたちを迫害していた人でした。この人は彼らの
行動にいたく感動し、クリスチャンたちに今まで迫害してきたこ
とを謝りました。
私が聞いた話では、あるクリスチャンたちは、神に反逆して
いるこの国を神が打ったのだと言って勝ち誇っているそうです。
彼らに対して私は言いたい。聖書によれば、神はご自分が懲
らしめる人々のことを悲しんでおられます(イザヤ16:9、エレ

ミヤ48:32-36、ホセア11:8-9)。だから、もし仮に津波が神
からの罰であったとしても、私たちは嘆くべきであって、決して
勝ち誇ったように言うべきではありません。
エレミヤは、ユダヤの人々が神への反逆のために罰せられ
ることを預言しました。そのため人々は彼を迫害しました。し
かし預言どおりに彼らが罰せられた時、エレミヤは決して嬉
しそうに「ほら、そう言っただろう!」とは言いませんでした。
彼は自分の民のために嘆いたのです(エレミヤ9:1)。実際彼
は、もし人々が悔い改め
なければ彼自身が悲しみ
に満たされるであろうこと
を、すでにさばきの前か
ら分かっていました。エレ
ミヤはこう言っています。
「もし、あなたがたがこれ
に聞かなければ、私は隠
れた所で、あなたがたの
高ぶりのために泣き、涙
にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ」
(エレミヤ13:17)。
クリスチャンを迫害したり軽蔑したりする人たちを祝福するた
めには、エレミヤの模範にならうことです。私たちは彼らが、
そして全ての人が、やがて来るさばきの日に創造主の前に立
つことができるよう、あらゆる手を尽くすべきです。
専門家たちは津波を予測できたはずなのに、なぜ警報を出
さなかったのかという批判の声もあります。どうか私たちが、や
がて来る神のさばきについて人々に警告するのを怠りませんよ
うに。

働くべき時
クリスチャンにとってはどんな災害も、行動するようにとの神
の呼びかけです。私たちは神の愛によって強められ(Ⅱコリ
ント5:14)、聖霊によって力を受けるので(使徒1:8)、苦しむ
人々に対して大きな影響を与えることができるように特別に整
えられます。
惨事に際してクリスチャンは、ただちに働き始めるべきです。
初代教会のクリスチャンたちは、自分たちの間にある必要を
知った時、すぐにその必要を満たすために働きました(使徒
4:34-37)。アンテオケで生まれたばかりの教会が、エルサレ
ムで起きたききんのことを聞いた時、彼らはすぐに、自分たち
のできることをして助けました(11:28-30)。このようにして、ク
リスチャンたちは歴史を通していつも救援活動の最前線で活
躍してきました。
今私たちは、あまりにも大きな必要がある状況に直面してい
ます。第二テモテ2 章でパウロはテモテに、クリスチャンとし
ての奉仕の働きについて教えています。これは私たちにとっ
ても大切な教えだと思います。この個所を見ながら、私たちの
置かれている状況に当てはめて考えてみましょう。
「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともに
してください」(Ⅱテモテ2:3)。パウロはここで、テモテの奉
仕の働きを苦しみと表現しています。福音のために苦しむこと
がパウロの日常であったことを考えると、彼がこう言うのもうな
ずけます(Ⅰコリント15:30-31、コロサイ1:24-29 参照)。そ
してこれは、苦しみに満ちたこの世の中に生きるすべてのクリ
スチャンに対する呼びかけであり、自分たちの国に仕え、苦
しむようにという呼びかけです。
忠実なクリスチャンは神と自分の国に仕えようとする時、様々
な苦しみに遭います。その苦しみの多くは間接的なものです。
例えば、救援活動に従事する夫を持つ妻は、彼がその働き

に専念することを許す必要があるでしょう。しかしこれは結婚
生活に影響を及ぼし、彼女にとっても大きなストレスとなること
があります。
救援活動で連絡係として、電話やメールのやり取り、報告
書を書くことで忙しくしている女性の婚約者は、彼女と一緒に
いる時間があまり持てないかもしれません。一緒にいる時でも、
彼女は疲れてイライラしているでしょう。
でも、私たちの苦しみが神への奉仕のためであると気づく時、
それは痛みをやわらげ、怒りを静める助けになります。苦しみ
の中には、もっと直接的なものもあります。体の疲れ、睡眠不足、
働きの動機に対する批判や、働きの方法に対する非難などで
す。
3 節から後でパウロはテモテに、苦しみに対する心構えを説
明しています。「兵役についていながら、日常生活のことに掛
かり合っている者はだれ
もありません」(Ⅱテモテ
2:4)。このような時、人々
に奉仕する働きにつくた
めには、一般の人たちが
必要だと思っている何か
をあきらめなければなら
ないでしょう。非常事態においては、非常手段が必要です。
この危機に際して人々のために働こうとするなら、皆が何かを
犠牲にしなければならないことを、家族に対しても話しておく
必要があります。
もちろん、家族生活は大切です。家族とのつながりは、ど
んなことがあっても欠かしてはなりません。しかし危機に直面
している時には、いつもとは違うやり方が求められるかもしれま
せん。
例えば、私の結婚記念日は津波の数日後でした。疲れ果
てている中、私の子供たちも夜遅くまで救援活動のために働

いていました。この国で多くの人々が困窮の中にいる時に、
記念日だからといってお金をかけることを私の妻はためらいま
した。でも夕食のため何とか家族全員を集め(夜9 時半頃!)、
安いけれどおいしい食事を出すレストランへ行くことができまし
た。おいしい食事を4 人で食べても、全部で600 円ほど。こ
のような状況の中で高いレストランへ行くことは、ふさわしくな
いと思ったのです。それでも家族と一緒にお祝いをすることが
できました。
パウロはこの苦しみを、農夫が一生懸命働くようなものだと
言っています(Ⅱテモテ2:6)。またパウロは、「このために、
私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦
しながら奮闘しています」(コロサイ1:29) と言いました。滅び
行くこの世界でキリストを証するよう召されていることの緊急性
を考えると、私たちはこの地上で生きている間は、常に熱心
に神に仕えて働く必要があります。やがて私たちは、天にお
いて全き休息に入ります(黙示録14:13)。今は働く時です。
インドで恵まれない子供たちのために働いた、偉大な宣教
師であるエミー・カーマイケルはこう言っています。「私たちに
は勝利を祝うのに永遠の時間がありますが、彼らを勝ち取る
ために残されているのは、日没前のたった数時間だけです。」
津波の直後である今、スリランカのクリスチャンの多くはとても
疲れています。けれどもそれは、仕方のないことです。この
国がこれほど大きな緊急事態に直面しているのですから。
私たちにとって今は、母国の民のために苦しみ、一生懸命
に働き、何も持たない人たちを助けるために、自分の持って
いる何かをあきらめる時です。今、この時にたゆむことなく働
かなければ、それは大変な間違いとなるでしょう。アモスは自
分の国が危機的な状況にあるのに安楽に遊んでいた人たちに
対して、さばきを宣告しています(アモス6:1-6)。ダビデは
本来、王として戦いに出ているべき時に罪に陥りました。彼は
その時、家にとどまっていたのです(Ⅱサムエル11:1)。

第二テモテ2 章の8
~ 13 節でパウロはテモ
テに、神への奉仕の働
きで苦しむなら、どんな
祝福が待ち受けている
かを教えています。11
節と12 節を見てみましょ
う。「もし私たちが、彼
とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍
んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」しかしここには、
警告もあります。「もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否ま
れる。私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼に
はご自身を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:12b-
13)。
このみことばは、やがて来るさばきが厳然たる事実であるこ
とを思い起こさせます。奉仕の業には報いがあり、不従順に
は罰がある。この真理は、クリスチャンとして生きる上で私たち
が行うあらゆることに影響を与えます。
やがて、私たちが個人的な犠牲を払って行った、あらゆる
ことが報われる日が来ます。あとの者が先になります(ルカ
13:30)。私たちが行ったことが、他の人たちの功績のように言
われる時でも、腹を立てたりしてはいけない理由がここにありま
す。この世で何の報いも受けられないようなことでも、喜んで
行う理由がここにあります。どんなに取るに足らないと思える仕
事であっても、小さすぎる仕事はありません。神が私たちに、
しもべとしてそれを行う力を与えてくださるからです。それは汚
いトイレを掃除することかもしれません。膿んだ傷口を処置す
ることだったり、ゴミを片付けることかもしれません。私たちは
それをする力を持つだけでなく、このようなことを素晴らしい特
権だと思うことができます。
津波の直後、多くのクリスチャンがすすんで、世間では卑し

い身分の人々がするとされている仕事をしました。私は大きな
喜びをもって、それを証することができます。実際、何人かは
身分差別を支持する人
たちから冷たくあしらわ
れました。彼らは傷付き、
私も怒りました。しかし
彼らは働きをやめず、
私は神を賛美しました。
他の人のしたがらない仕事をし、しもべとして仕えることができ
るのも、キリストの愛が私たちのうちにあるからです。私たちは
神の国の王子、王女であり、さばきの日に誉れを受けることを
知っています。災害の時こそ、クリスチャンがしもべであること
を証する時です。


Pesquisa: Pastor Charles Maciel Vieira

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