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terça-feira, 7 de janeiro de 2014

聖書は神からの書物

聖書は神からの書物
聖書は神からの啓示を記した書物
死海写本と呼ばれる旧約聖書の写本の断片(B.C.1世紀)。
 クリスチャンは、『聖書』は神の啓示の言葉を記した書物であり、「神の言葉」であると信じています。
 聖書が「神の言葉」であるとは、どういう意味でしょうか。また、どうしてそのように信じることができるのでしょうか。


聖書が神の言葉であるとはどういう意味か

 聖書が「神の言葉である」という意味について、まず見てみましょう。
 聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻の書物から成っています。それらは、約40人の人々の手によって記されました。
 それらの著者の中には、王もいれば、農夫も、漁師も、医者も、税務官もいました。金持ちもいれば貧乏人もおり、都会人もいれば田舎者もいました。このように、聖書66巻の書物を直接記したのは、いずれも人間です。
 でありながら聖書を「神の言葉」だと呼ぶのは、聖書を記した究極的な著者は神である、と信じるからです。
 クリスチャンは、直接聖書を記したのは人間であっても、彼らのペンを導き言葉を与えたのは神である、と信じているのです。どういうことでしょうか。
 たとえば、もし「法隆寺は誰が建てたか」と聞けば、あなたは聖徳太子だと答えるでしょう。それは正しい答えです。
 しかし、聖徳太子が実際に大工道具をもって、一人で建てたのでしょうか。いいえ、実際に建て上げたのは、大勢の大工や左官です。では、法隆寺を建てたのは大工や左官かというと、やはり聖徳太子です。
 聖書の場合も同様です。聖書は、多くの人々の手によって記されました。では、聖書の本当の著者はそれらの人々かというと、そうではなく、実際は彼らを導かれた神なのです。 このことについて、聖書はみずから、
 「聖書はすべて、神の霊感によるものである」(Ⅱテモ3:16) 
 と述べています。
 聖書(の原本)は神の霊感を受けて書かれた、神からの啓示の書物であり、神から人類に宛てられた一つの「手紙」なのです。それが、聖書を「神の言葉」と呼ぶ意味です。

神は、聖書の記者たちのペンを導き、

彼らに言葉をお与えになった。
聖書の本当の著者は神である。
 つぎに、聖書が神の霊感を受けて書かれた書物であることを、たとえばどのようなことが示しているでしょうか。

聖書が神の霊感を受けて書かれたことはどのようなことが示しているか

 聖書は、その66巻が約40人の人々の手を通して記され、1600年以上の長い歳月をかけて執筆されたにもかかわらず、驚くべき調和と統一性を保っています。

 とくに聖書の初めの5巻は、世界で最も古い書物です。
 儒教の「大学」がB.C.5世紀に記され、ヒンズー教のベーダの中の「知識の書」もB.C.5世紀、仏教の経典「三蔵」はB.C.1世紀、イスラム教の「コーラン」がA.D.7世紀、神道の「古事記」「日本書紀」がA.D.8世紀に記されたのに比べ、聖書の初めの5巻は、それらよりずっと古くB.C.15世紀に記されました。
 そして聖書66巻は、B.C.15世紀からA.D.1世紀にわたる1600年間にわたって記されたのです。
 その中には、歴史あり、律法あり、詩歌あり、預言ありで、ひじょうに多様です。しかし、一つのテーマによって貫かれ、調和と統一が保たれています。
 いまかりに、40人の人をいろいろな所から選び、各自に自由な題で文を書いてもらい、それを集めて一冊の本にしたらどうなるでしょう。それは、世界で最も混乱した書物になるに違いありません。
 ところが聖書は、場所の違いばかりでなく、時代も身分も違う人々が,無連絡で記したものでありながら、統一と調和のとれた全く一つの書物であり、一つの矛盾もありません。
 これは、たとえば仏教の経典などと比べると、ひじょうに対照的です。
 仏教の各宗派は、宗派ごとに異なる経典を信奉しています。たとえば日蓮宗、浄土真宗、真言宗、阿含宗、・・・など、みなそれぞれに経典が違うわけです。
 それは、各経典の内容がひじょうに異なるため、経典ごとに宗派が生まれることが可能だからです。
 しかし、聖書の各巻は全く同一の教えによって貫かれており、66巻は互いに補足し合って、全巻で完全なものを形成しています。
 このようなことができたのは、唯一の真の神が聖書の記者を導き、監督してくださったから、と考えるのが最も理にかなっていると言えるでしょう。聖書はまた、きわめて純粋に保存され、伝えられてきました。
 古い時代には、人々は聖書を原典から手で書き写すことによって、伝えてきました。しかし、その内容は細部に至るまで違いがなく、純粋に伝えられてきたのです。
 これは、世界の大博物館におさめられている聖書の古代写本を比較研究した、多くの学者たちによって確認されていることです。
 神はご自身の言葉を、大切に保護してこられたのです。


聖書は驚くべき記述に満ちている


 また、聖書を読んでいて特に印象深いのは、聖書が数々の驚くべき記述に満ちていることです。ここに、それらの例を3つほど紹介しましょう。その一つは、地球に関する聖書の記述です。

 地球について古代インド人は、地球は一頭の象の背にのっており、その象は一匹の亀の上に、その亀はコブラの上にのっていると考えていました。では、そのコブラを支えているものは何なのか・・・ということになります。
 一方古代エジプト人は、地球は5本の柱で支えられていると考えていました。では何がその5本の柱を支えているのか、ということになるでしょう。
 もちろん現代人は、地球は何もない宇宙空間に浮かんでいて、目に見える何かによって支えられているのではないことを、知っています。
 ところが世界で最も古い書物――聖書は、そのことを今から約3千年も前に記していたのです。聖書のヨブ記26:7には、こう記されています。
 「彼(神)は・・・地を何もない所に掛けられる」。
 これは、もちろん人工衛星もなく、人が地球の外に出て地球の姿をながめることも、不可能な時代に記されたものです。
 しかし聖書は、地球は「何もない所」に掛けられているのであり、目に見える何かで支えられているのではないことを、初めから知っていたのです。
 また聖書は、地球が「丸い」物体であることも、今から約3千年も前に記していました。
 「主(神)は、地球(原語は「地の円」)のはるか上に座して、地に住む者を、いなごのように見られる」(イザ40:22 口語訳) 。
 さらに、「地球の陸地の中心」に関する聖書の記述も、驚くべきものです。
 ある科学者グループが、コンピューターを用いて、地球の全陸地の中心地はどこかということを、調べたことがあります。全陸地の形や位置はそのままにして、地球の球面上の陸地の中心を、算出するのです。
 科学者たちは、まず全陸地を細かに分割し、「ある場所から他のすべての分割地までの距離の総和が最小となるような地点」を、コンピューターで探しました。そのような地点が、数学的に求められた全地の中心、ということになるわけです。
 その結果はどうだったでしょうか。その中心地は、パレスチナからメソポタミヤにかけての地域であることが、判明しました。つまり、聖書の舞台となった地域です。
 しかし、この事実はB.C.600年頃記された聖書のエゼキエル書5:5に、すでに述べられていたことでした。
 「神である主は、こう仰せられる。『これはエルサレムだ。わたしはこれを、諸国の民の真ん中に置き、その回りを、国々で取り囲ませた』」。
 また同書38:12では、イスラエル民族のことを、
 「地の中央に住む
 民と呼んでいます。

「これはエルサレムだ。わたしはこれを、
諸国の民の真ん中に置き・・・・」
 このように聖書は、地理学においてほとんど無知であった時代に、パレスチナ地方、とりわけエルサレムが、全地の中心であり万国の中心に位置する、と述べていたのです。
 聖書が真実な書物であることは、その歴史的記述が、考古学の裏づけを得ていることからもわかります。
 かつて多くの人々は、聖書に記されたノアの大洪水の話、バベルの塔の話、ソドム・ゴモラの滅亡の話、モーセの出エジプトの話、ヨシュアのカナン攻略の話などを、事実に基づかない「神話」であると考えていました。
 しかし最近の考古学の発達は、聖書に記された歴史が、すべて事実であったことを確認したのです。
 著名な考古学者ウェルネル・ケラーは、様々な調査を重ねた結果、こう言いました。
 「聖書はやはり正しい」。
 いくつもの古代語をあやつり、不世出の天才と言われた考古学者W.F.オルブライトも、こう述べています。
 「理性的な信仰をさまたげうるようなものは何一つ見いだされず、個々の神学上の説を誤りと断定するものも、全く発見されなかった。・・・聖書の言語、その民族の生活と慣習、その歴史と倫理的・宗教的な表象はすべて、考古学上の発見によって数倍も明確にされている」。
 またこう述べています。
 「聖書の記述中、問題となっている大きな点は全部歴史的であることが、証明されている」。


迫害に耐えてきた書物


 聖書はまた、「迫害に耐えてきた書物」としても、特筆すべきものです。

 聖書は歴史上、最も愛読され、一方では最も嫌われた書物です。聖書はつねに、人々の攻撃のまとであり、非難の矢おもてに立たされてきました。
 1世紀後半から4世紀初めまでのローマ帝国による迫害下において、多くの聖書が焼かれたことは、よく知られています。
 18世紀のヨーロッパでは、人々は全勢力を傾けて聖書撲滅運動を展開しました。科学、哲学、思想、ときには暴力的手段までも用いて、聖書を葬り去ろうとしたのです。
 フランスのヴォルテール(1694―1778年) は、聖書を嘲笑してこう言いました。
 「30年もたてば、聖書を読む人間など一人もいなくなるだろう。100年の後には聖書は博物館に飾られて、昔の人間はこんなものを読んでいたのだと、語られるようになるだろう」。
 しかし、事実はどうでしょうか。今日、聖書は滅びるどころか、以前にも増して重要視されるようになっています。
 おとなりの中国では、毛沢東の「文化大革命」の時代に、中国のキリスト教会は大きな迫害を受け、聖書は取り上げられて人々の前で焼かれました。しかし今日の中国で、聖書は滅びたでしょうか。
 日本の教会に入ってくる情報によると、今の中国には「隠れキリシタン」ならぬ隠れ信徒が、かなりいるとのことです。
 彼らの大半は、中国政府公認の教会(政府の言いなりの教会)には属さず、ひそかに家や森で集会(家の教会という)を持っています。
 彼らの数は5千万人とも、1億人とも伝えられています。今も共産主義が続き、宗教や伝道の禁じられているあの中国ですが、約10億人いる人口のうち、十数人に一人はクリスチャンなのです。
 彼らのもとには、日本や世界のクリスチャンたちが印刷した多くの中国語聖書が、送り届けられています。
 今日も、聖書は世界一のベストセラーとして、君臨しています。聖書は、全訳・部分訳を含め、世界の1600以上の言語に翻訳されているといいます。
 この数は、全世界の言語のほとんどを含んでいます。発行部数、および翻訳言語数において、聖書と比べられる書物は他にありません。
 今日も多くの書物が、ベストセラーとして現われては消えていきます。一般の本は、ベストセラーとなって2~3年はもてはやされることはあっても、いつしか忘れ去られていくものです。
 しかし、聖書はそうではありません。聖書は今日も、「本の中の本」(Book of books) として、人々に読み継がれているのです。
 私も、本が好きで、いままで沢山の本を読んできました。様々の哲学や思想の本、科学書、仏教や神道の本、小説、エッセイ、その他あらゆる分野の本を読んできました。
 しかし結局は、ただ一冊の本――『聖書』に帰るのです。他の本は、単に「読む」だけですが、聖書については、私はそれを「信仰」しているのです。このような書物は、ほかにはありません。


聖書は人生を導く指針の書


 聖書は、あなたの人生を幸福に導くことのできる、真の指針の書です。

 奴隷を解放したアメリカの大統領アブラハム・リンカーンは、聖書についてこう述べました。
 「聖書は、これまでに神がくださった最上のギフトであると、私は信じている。世界の救い主から発する一切の良きものは、この書を通して我々に伝達される」。
 また、イギリスの大政治家W.E.グラッドストンは、
 「私はこの時代に、偉人と呼ばれる95人の人を知っている。うち87人は、聖書を奉ずる人であった。聖書の特色はその特異性にあり、他のあらゆる書物を無限に引き離している」
 と述べました。
 また近代科学の基礎をつくった大物理学者アイザック・ニュートンは、こう述べています。
 「いかなる世俗の歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理が存する」。
 聖書は、人類を動かしてきた書物です。そして今も、動かしつつあります。聖書の中に、私たちは人生を幸福に導く秘訣を見いだすことができます。

「いかなる世俗の歴史におけるよりも、
聖書の中には、より確かな真理が存する」
――アイザック・ニュートン。
 聖書はすべて、神の霊感を受けて記された、神からの啓示の書なのです。それは、神からの「手紙」なのです。神の愛が込められた手紙です。
 父が、子に生き方の指針を与えるように、神はこの手紙を通して人生の指針を説いておられるのです。まことに、
 「聖書はすべて・・・教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Ⅱテモ3:16) 。
 「あなた(神)のみことばは、わが足のともしび、わが道の光です」(詩篇119:105)。
 あなたは、この書に記されている人生の指針が真実なものかどうかについて、個人的に「実験」することができます
 この一冊の書は、今まで人々の心に平安を与え、死にのぞむ人々に希望を、悲しむ者には慰めを与え、また悩む者を導き、問題を解決し、人々を愛の事業に駆り立て、それを成功に導いてきました。
 もしあなたが、よりよい人生に入りたいと願うなら、聖書はそれに答えてくれるのです。聖書はまた、神の権威をもって人間の罪を明らかにし、救い主イエス・キリストを示します。
 私たちはイエス・キリストを通して、永遠の生命の幸福の中へ入ることができるのです。
 あなたは『聖書』を信じ、その御言葉に従うなら、それがまことに神からの真実のお約束であることを、身をもって体験することができるでしょう。
久保有政著(レムナント1992年12月号より)




















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