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quarta-feira, 18 de maio de 2011

『津波のあとで』 - DEPOIS DO TSUNAMI - Albert Lea - 1ªPARTE (Japones)

自然災害に襲われたクリスチャンが、
聖書のみことばを通して考えたこと
アジス・フェルナンド著

この冊子の著者アジス・フェルナンド師は、国際的に信望
の厚い聖書解説者であり、神学者です。また、スリランカの
Youth For Christ (ユース・フォー・クライスト) の総主事で
もあり、RBC ミニストリーズ スリランカの理事でもあります。
私は彼を友として、また主にともに仕える同労者として尊敬
しています。彼の神に対する愛、家族への愛、同僚への愛、
そして伝道している人々に対する愛は、誰の目にも明らかで
す。

2004 年12 月26 日、彼の愛する母国スリランカを大津波が
襲い、壊滅的な被害を与えました。フェルナンド師が神を愛
する一市民としてまとめた考えが、ここに書かれています。

インターナショナル・ディレクター
アルバート・リー


津波のあとで
津波がスリランカを襲いました。約4 万人が亡くなり、何
十万人という人々が避難生活を余儀なくされています。私は
この文章を、津波の数日後に書いています。惨事が起こった
日のちょうど一週間後にスリランカを発ち、本の執筆のために
3 週間の休暇をとる予定でした。津波の災害はあまりにも衝撃
的であったため、初めのうち私たちはどうしてよいか分かりま
せんでした。最初の二日間
は、予定通り出発できるだろ
うと思っていました。しかし、
冷静さを取り戻した現在、こ
んな状況の中でまだ旅に出る
ことを考えていた自分に驚い
ています。今はクリスチャンに
とって、国民の痛みをともに
分かち合うべき時です。私は今、この国を去ることはできませ
ん。
このような状況になると私たちは、聖書の中に励ましと導き
を見つけようとします。そして聖書が、私たちに多くのことを語
りかけていることを見出します。この小冊子は、スリランカのク
リスチャンたちが今、何をすべきか、ということを聖書に基づい
て私なりに考えてまとめたものです。さらに原文を改訂し、津
波に限らずどのような惨事に直面している人にも役立つように
と考慮しました。

嘆き悲しむべき時
聖書にはこう書いてあります。「泣くのに時があり、ほほえむ
のに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある」(伝道
者の書3:4)。津波被害のただ中にある今は、泣く時、嘆く時
です。
聖書の中には、悲しみの歌がたくさんあります。神の忠実
な民が自分たちの状況を嘆き、なぜ神はこのようなことが起こ
るのを許されるのかと、疑問を投げかけています。これらの歌
には、個人的に苦しみの中にある人々の歌と、国を愛する人々
が国にふりかかっている災いを見て嘆いている歌があります。
旧約聖書の「哀歌」では、一巻の書簡を通して、民の苦し
みに対するエレミヤの嘆きがつづられています。
エレミヤはこう叫んでいます。「ああ、私の頭が水であった
なら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、
私の民の殺された者のために泣こうものを」(エレミヤ9:1)。
彼は自分の魂の痛みゆえ
に泣こうとしました。エレミ
ヤの語ることばは、泣くこ
とは魂の痛みに癒しをもた
らすことを示しています。
家族や地域社会、ある
いは国のことで心を痛める
時、その悲しみを溜め込
まずに表現するなら、前向きになって人の役に立つことができ
ます。
ネヘミヤがしたことも、これと同じでした。エルサレムの惨状
を耳にした時、彼は泣き、何日も嘆き、断食し、祈り、つい
には王が彼の深い悲しみの表情に気がつくまでになりました。
しかし、この嘆きの期間が終わった後、ネヘミヤは行動を始め、
2,500 年を経た今も、そのすばらしい指導力が偉大な模範とし

て語り継がれる国家的英雄となったのです。
聖書の中で、人々はいろいろな方法で嘆きを表しています。
断食(Ⅱサムエル1:12)、荒布をまとう(創世記37:34、Ⅱサ
ムエル3:31)、灰をかぶる(エステル4:1-3、エレミヤ6:26、
25:34) などです。私たちは嘆きを表すのに、自分自身の文
化においてふさわしい表現を見つける必要があります。家族
や教会、地域社会、あるいは国全体が悲劇に見舞われたとき、
断食して祈るのは望ましいことだと言えるでしょう。一方、スリ
ランカでは津波のあと、嘆きを表すのに白旗を掲げました。そ
れぞれの文化は、悲しみを表すのに独自の表現方法を持っ
ています。
スリランカに初めてプロテスタントを伝えたのは、西ヨーロッ
パの宣教師たちです。歴史的に見て、この宣教師たちは人
前で感情をあらわにすることはありませんでした。そのため、
今でもスリランカでは、私たちプロテスタントのクリスチャンは
嘆きを表向きに表すという習慣がありません。しかしスリランカ
でも、ポルトガルから最初の宣教師たちが来たローマカトリック
の人たちは違います。彼
らのお葬式は、まるで聖
書に出てくるドルカスが亡
くなった場面のようです。
「やもめたちはみな泣きな
がら、彼(ペテロ) のそ
ばに来て、ドルカスがいっ
しょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるので
あった」(使徒9:39)。プロテスタントである私たちも、聖書的
な理解に沿いつつ、私たちの慣習に合う嘆きの表現方法につ
いて真剣に考える必要があります。

なぜかと問うべき時
-神の主権をどう考えるか
なぜこんなひどいことが起こるのか、と神に問うことは、非常
に聖書的です。聖書は私たちに、この疑問と真っ向から取り
組むように励ましています。ヨブやエレミヤ、詩篇の筆者たち
がそのよい例でしょう。ヨブはなぜこんな事が自分の身に起こっ
ているのかを理解するまで、長い間苦しみました。たいてい
の場合、神の民はこのような疑問との格闘の後に、こう断言し
ます。神は主権をもって何が起こっているかをご存知なので、
最も賢いことは、この神に信頼し続けることだと。これは詩篇
の中によく見られます(詩篇73 篇など)。
惨事の時に神の主権を信じるならば、苦しみの中にあって
も私たちは希望を失いません。どのように悲惨な出来事であっ
ても、神を愛する人々のためには、そこから益をもたらしてく
ださるという神の約束に信頼すべきです(ローマ8:28)。
このように神の主権を理解することは、すぐにはできないこ
とかもしれません。時に私たちは、葛藤の中で神と格闘する
必要があります。このよう
な時には、祈りと神のみこ
とばに聞くことが大切です
(詩篇27)。災害からの復
興や、被害を受けた人を
助けるのに忙しい最中か
もしれませんが、神と神のみことばに接する時間を見つける必
要があります。どんなに難しい状況であっても、神の民がとも
に集まって礼拝を守らなければならない理由は、ここにありま
す。一緒に礼拝する時、私たちは永遠の霊的真理に目を向け、
神の主権を思うことができます。霊的真理に触れることは、絶
望に陥ることなく、私たちを助けてくださる神に信頼する力を

与えてくれます。神とそのみことばによって慰められ、力が与
えられ、それによって私たちは苦しんでいる他の人たちを助け
ることができるようになります。
-被造物のうめき
アダムとイブが神に対して罪を犯したため、罪がこの世に入
り、この世界は本来の姿を失いました。聖書はこれを、被造
物がのろいの下にあると表現しています(創世記3:17、ロー
マ8:20)。そのため、やがて神が新しい天と新しい地をもたら
すまで、自然災害は起こり続けるでしょう(Ⅱペテロ3:13、黙
示録21:1)。パウロは「被造物全体が今に至るまで、ともにう
めきともに産みの苦しみをしている」と言っています(ローマ
8:22)。そして彼は、キリストを知る者たちも、ともにうめいてい
ると言います(23 節)。被造物のうめき、そして神の民のうめ
きというものを、津波という惨事を通して私たちは明らかに感じ
ることができました。
クリスチャンは、うめき苦しむ方法を身に付けなければなりま
せん。そうでなければ、問題が起こってそこで働くよう神が召
された時、私たちは神の御心から逃げ出して、安全な場所へ
行ってしまいたいという誘惑を受けるでしょう。うめくことが、困
難に対処する上で役に立ちます。
ローマ人への手紙8 章で言われているうめきは、「産みの
苦しみ」と描写されています(22 節)。出産の痛みを耐える
女性は、子供が生まれてくる喜びの瞬間を待ち望むからこそ、
その痛みに耐えることができます。
同じように、私たちのうめき苦しみは、確かに来る栄光に満
ちた時を思い起こさせます(Ⅱコリント5:2-4 参照)。その時を
待ち望むことで、神が私たちを置かれたその困難な状況から
逃げ出さないでいられるのです。天において、苦しみから永
遠に解放される時が確かに来ることを知っているので、私たち

は困難に耐えることができます。
うめき苦しむことは、私たちが経験した痛みから来る苦い思
いや憎しみを取り去ってくれます。神と神の民の前でうめくこと
を身に付け、心の中に苦しみをため込まないことが大切です。
そうする時、私たちは感じている痛みを表に出し、悲しい経
験の中で積み重なってくる心のひずみを解き放つことができま
す。そうすれば、苦い思
いや憎しみが大きくなるこ
ともないでしょう。
私たちがうめくことは、
神が私たちを慰めてくださ
る機会にもなります。神が
直接、また友人を通して間接的に慰めてくださいます。真の
慰めを得る時、私たちの経験する愛は心の苦い思いから出る
怒りを取り去り、憎しみに満たされることはありません。
スリランカが国として津波の被害にうめくとき、私たちは個人
としてもうめいています。そこには、なぜこんなことが起こった
のですかと、神に問ううめきが含まれています。この世界を治
めておられるのは神である、という確信を心の奥深くに持って
いてもです。
-神のうめき
聖書が神について教えている中で最も驚くべきことは、私
たちがうめく時、神も私たちとともにうめかれる、ということです
(ローマ8:26)。神は私たちの痛みを感じることができないほど、
遠く離れてはおられません。イスラエルが苦しんでいた時、神
も苦しまれたと聖書は語っています(イザヤ63:9)。実際神は、
ご自分を認めもしない人々のために嘆き悲しまれます(イザヤ
16:11、エレミヤ48:31)。これは、神は遠い存在で私たちに
かまってもくれない方だという、一般的な考えとはまるで違う教

えです。
神であるイエスはこの地上に来られた時、この世界の痛み
を見て嘆き、うめきました。ですから神がうめかれる、というこ
とは不思議なことではありません。イエスはエルサレムのかた
くなさと、やがて来るさばきのために泣きました(ルカ19:41-
44)。イエスはまた、友人
であるラザロの墓の前で、
泣いている他の人たちと
ともに泣きました(ヨハネ
11:33-35)。ですから私
たちは、こう言うことがで
きます。神は、泣いてい
るスリランカの人たちとと
もに泣いておられます。
神は泣いておられる。だから私たちは、もっと積極的に泣
いてよいのです。しかしさらに大切なのは、神が私たちととも
にうめいておられることを知るなら、私たちの身に起こったこと
で神に対して怒りを抱くこともなくなる、ということです。また、
私たちが途方にくれた時、慰めを求めて神のもとへ行く励まし
にもなります。
-これはさばきか?
このような惨事が起こった時によく聞くのは、これは神のさば
きなのではないか、という質問です。中には、これはクリスチャ
ンを迫害した人々へのさばきだと言う人さえいます。未信者だ
けでなく何千人という善良なクリスチャンたちも犠牲になったこ
とを考えれば、そんな主張に対しては大きな疑問を抱かざるを
えません。
スリランカでは普通、教会出席者数がいちばん多いのはクリ
スマスの日です。津波はクリスマスの次の日、礼拝が行われ


Pesquisa: Pastor Charles Maciel Vieira



『津波のあとで』

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